~ ウキウキ☆RaiseMeUp 内なる炎を燃やす魂実験房 ~
--年--月--日 (--) | 編集 |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2009年02月05日 (木) | 編集 |
少しだけ別の見方がありそうな気がしてきた。

こないだの「火あぶり」云々の話について。
ルシファーが地獄の業火に焼かれて云々というのを読んだり、殉教話を読んだりした時に、自分が思うことって、たいてい、
「そんなんしなきゃいいのに~~」
なんだよね。

「サイレントヒル」で出てきたのは、無実なのに難癖をつけられて火あぶりにされてしまうというシチュエーションだったので、殉教とはまたニュアンスが違うのかもしれないけれども……それは、おいといて。

禁教狩りの場合、火あぶりにせよ、みゃみゃさんとこに貼られていた穴吊りにせよ、棄教すると命は助かるわけです。
その、立ち読みした小説も、火あぶりの際縄は緩く結ばれていて、逃れることは出来た……と書かれていまして。
で、私は「そんなんしなきゃいいのに~、そこで命を張ったって神様は喜ぶのかねぇ~?」と思ってしまうわけです。
うーん、これってむしろ「火あぶりにした側」の視点なんじゃないの?

殉教するんでもさ……
「私は今肉体を脱ぎ去り神とひとつになるのだ、炎の熱さと苦痛よりも喜びの方が勝っている、ハレ~ルヤハレ~ルヤ~」と思えながらだったらいいんだけれども、
「私は神の教えを広めたかっただけなのになんでこうなるわけ~、ちょっと~!!何とか言えよ!ミカエル~~!!」とか思いながらだったら、それは、今回は助かっておいた方がいいんじゃないの、未来生に遺恨を残すだけじゃないの、と思ったり。

なんていうのかな。
私は何かあることに非常にこだわりを持って「これこれこうなんだよ!ここだけは死んでも譲らないね!」っていうのとか、あるいは「これだけは私には認められない!性分なんだからしかたない!」っていうのとかを見ると、何か殉教者を見るような気分で「そうかぁ~、それが楽しくてしているのならいいけど~、そのこだわりが元で苦しんでいるとしか見えないのにそのままでいるのはいいのかなぁ~」と思っちゃうらしいね。らしいね、って他人事みたいに言うのもどうかと思いますが。
自分の好きなものやりたいことにこだわる、とかだったらいいと思うんですよ。そういうところにこだわれる人には、むしろ憧れるんだけれども……。

オチはありません(´・ω・`)
スポンサーサイト

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。